9月13日(水)午後、4年生は斐川町内にある新川跡地の見学に行きました。見学コースは、斐伊川放水路取水口→剣先(斐伊川と新川の分岐跡)→出雲結(洪水から村を守る衝立跡)→法華経土手(洪水で決壊した堤防跡)です。



「新川」は、昔から斐伊川による水害に悩まされてきた斐川に住む人たちのために作られた人工の川です。出雲地方の山間部は「花崗岩」という崩れやすい土壌が広がる地域で、上流から下流に向かってたくさんの土や砂が流れてきていました。しかも、奥出雲地方は砂鉄を鉄に変える「たたら製鉄」と呼ばれる製鉄法が盛んな地域でしたので、山を崩して砂鉄を採る「かんな流し」によって下流の出雲平野付近の川床は浅くなりがちでした。このような川を「天井川」といい、しばしば洪水を起こす大きな要因になっていました。
そこで松江藩は斐伊川の水を早く宍道湖へ流して洪水を防いだり、水の力で砂を流して新しい土地を広げたりするために、新しい川を掘る計画を立てました。今から約190年前の1830年頃から、出西地区の剣先から荘原の町あたりまで(このころは、荘原の町あたりまでが宍道湖だった)、幅200m、長さ約11kmの大きな川をつくる大工事を行いました。
工事のために家を移転しなければならなかった人や、田畑が川底に沈んでしまう人がたくさんいましたが、このように土地を失った人を助けたのが、勝部本右衛門(本名は栄忠 1795年~1886年)という出東地区坂田の人でした。本右衛門の家は代々大規模な農家で、新川掘削工事の役人として活躍しましたが、松江城天守閣の保存にも力を尽くした人でした。
新川の完成によって、しばらくの間は水害は少なくなり、出東地区沖洲や荘原地区新田などは、新しい土地が広がって田畑となりました。しかし、流れ込む土砂による斐伊川の天井川化は止まらず、しだいに新川も川床が高くなっていき、かえって新川が水害を起こす原因になってしまいました。1934年に「法華経土手」での大洪水がきっかけになり、1939年に新川はその役目を終えて閉じられることになりました。
斐川町内を歩くと、新川の名残がみられる土地の形があちらこちらにあります。4年生は見学でそのような場所をたくさんみて、新川の役割や斐川町に住む人たちの思い(水害に対する悩み)を考えることができたと思います。
4年生は今後、そのような水害に対する町民の悩みに立ち向かった人物「植田元確(うえだ もとかた)」についても学習します。これについては、後日Blogにてお伝えします。